top of page

ぷんすかの理由を求める時勢に寄せて

  • 執筆者の写真: 小林真生
    小林真生
  • 7月12日
  • 読了時間: 2分

 今学期末に拵えた小論文に「あと書き」として付した雑記を転載したい。



 以下当該の文。


・・・


 現代においても「そう感情的になんないで」という言い回しはよく用いるものであるし、また感情を剥き出しにしたらどこか劣ったものになった気がする。実際、怒りでも嘆きでも、([論文内の]上では Affekt や Leidenschaft のような)強い感情を伝えるのは、「理性」なように見える。いくらでもぷんすかしている人が映像化されている現代では、顔や所作のぷんすか具合を競って表明しても仕方なく、ここまでぷんすか動画が多ければぷんすかが「真実」なほどむしろ陳腐でもある。ぷんすかをより深く共感せしめるのが、ぷんすかの「理由」だということになっても仕方ない。映画のストーリー仕立てにする、「あるある」を交えた短文投稿に整える、時事問題を取り上げる、などの導線を求めることになる。

 19-20世紀を経過した今となっては芸術が「感情表現」だというのは常識ですらあるが、とりわけ SNS で人間の感情欲望剥き出しな今においてすら、自分で感情剥き出しになると劣った気がするのに、芸術は「模倣」だという合理的位置付けの中から、しかも社交上お高くないとならん上流階級の高尚芸術の中から「表現」などというものが出てきたのは、実際革命的と言って相違ないと思う。

 18世紀のヨーロッパは、デカルト哲学や近代科学の勃興した17世紀から続く、合理主義の時代である。理性が万能であったり、万能ではないならその下の感覚をまとめ上げる上位能力であったりした。バトゥーやゴットシェートの演劇理論でも、筋書きの統一こそ戯曲の完成度であった。登場人物の Affekt は、まさにストーリーによって理解されるべくしてあった。感情欲望剥き出し社会なはずの今でも、一種合理的でなければ通用しない。


 しかし、こんなにつまらんことがあるか。人間文化の本質はストーリーなのか。


 筆者は現代にこう思うが、同様の問題意識が18世紀のドイツ人にもあったのではなかろうか。

 筆者が(自分の研究に)期待したいのは、[論文内の]上のように言語でありつつ、固定的合理主義をすっぽかした言語の件である。音楽的言語の件である。これは当然、統辞法的に上で挙げた文章が云々だからと並び立てることで出てくる結論ではない。それは、例えば[論文内の]上のエシュシュトルートの引用からは、「音楽的要素」と「キャラクター」が説得力をもって接続されていないと、いえる程度だからである。さらに思想(思考形式)を扱って研究しなければならない。


 
 

​小林真生は音楽をする人

bottom of page