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生活の精神的余裕に寄せて

  • 執筆者の写真: 小林真生
    小林真生
  • 7月14日
  • 読了時間: 5分

 昨年度に某授業で執筆した小論文を、抜粋で紹介する。



 以下当該の文。


・・・


 [……]私は、人々が日々を暮らしていく中で自然と芸術体験が関わってきて、そこで何か芸術が生まれ、芸術に触れるような社会になってほしいと考えている。一般に人はただ自然の状態で生きていくことはできないが、このとき必ず生じてくるのが「文化」である。つまり人間の事柄であっても、心臓が動く、空腹になるといったような生物的・生理的なことは「文化」ではなく、他方で人が集まり、そこで共有された作法や営みが「文化」となる。人は自分の自然の、いわば非文化の部分を根底にしながら、文化によって他人と関わることで生存してきたという、二重の不可逆を背負っているのである。

そして、人間社会の中で共有されてきた文化は、必然的にその共有枠組みの「歴史」を持つ。他文化を見つめる際には、現在進行形の文化と、その文化の蓄積である歴史の両方に注目し、分析することができる。文化同士を比較する際には、歴史に対して現状のみに注目することもある。一方で、自分自身が生きている文化を掘り下げて知ろうとするには、必然的に歴史との関係が欠かせない。自分周辺の景色を眺めて文化の現状を批判してみようとすると、どうしてもその要素の持つ意味の蓄積に注目して、その是非について考えてしまう。この文化的要素をどう捉えるかという基準や、その視座まで、当のその文化の上にある。


 これを換言すれば、我々は自分自身の生きている文化を、「文化」とは呼んでいないといえる。自分自身に近ければ近いだけ、自分の世代に至るまでのその蓄積、つまり歴史の層の厚みを本体として文化を理解してしまうのではないかと思う。人対人で形成される共有枠組みという純粋な意味で考えてみるならば、無意識的に当然とされ、社会を動かしている要素が、文化の根底にあるはずである。私はここに、本当に文化的になるためには、文化的であろうとする意志を忘れてみなければならないという、逆説があると思う。そして歴史の蓄積による洗練された文化を守りたいと志す、もしくは(文脈に即すならば)そういう結果であって欲しいと望むのであれば、短絡的に「文化」という言葉ばかり気にかけるのでなく、今を生きる我々が「文化」と呼んでいないところでその継承という結果が生じてくるのだと心得なければならないと考える。


 [……]現代、特に大勢の間で同質の生活様式や情報源が共有された大衆社会が一段落して、個人の「ウェル・ビーイング」や「ワーク・ライフ・バランス」といった言葉で個人独自の幸福追求を重んじる価値観が形成されつつある近来、理想の通りであれば人々の余裕は増幅しているはずである。しかし実際には、人間が積極的に余裕を求めた結果、むしろ余裕を失いつつあるように思える。最近では AI が爆発的に進歩し、人々の便利のためのサービスが開発され続けている。チャット型 AI が普及し、考え事や調べ物、情報の整理や生成など、漠然としたアイディア出しから綿密な行動計画まで日常の様々なことに AI との会話が介されている

。最近では会話・行動の記録を通して生活に密に介入する関連技術の開発が進み、ここ数か月はロボットとして AI が具体化するという向きもある。


 言語活動を中心として様々な作業を AI が行うようになり、果たして人類の頭脳の領域に余裕は生まれたであろうか。また、これから物理的な作業にも AI を搭載した機械が投入されるとなると、果たして以前からの懸念のように人間の仕事が奪われ、その結果として人類は余裕を謳歌する存在となるのであろうか。


 現実には、物凄くスピード感が増して、以前より大量のデータを扱い、むしろ仕事や生活はせわしくなくなっているといわなければならない。日常生活の全てにおいてとにかく時間に追われた結果、休暇や娯楽にまで「タイム・パフォーマンス」の高いことが求められている。幸福の単価が個人となることで、その幸福にまで競争が生まれる。そこに AI による処理の高速化が入ると、突き進んでいかに自分が道具としての AI に対して人間的存在か、という競争までめまぐるしい事態となる。文化的、人間的であろうとして、謳歌できる余裕の幅が、明らかに狭くなっていると実感させられるのである。


 何か物質的に豊かになると、特定の不便が解消されるという個別の効果があるから、そこを追求する意義は簡単に見出せる。あとは技術革新さえ伴えば、その不便に働きかけることができる。しかし、こうした豊かさを求めることに終始すると、積極的に余裕を得ようとする欲望から離れられなくなる。一方で、精神面の豊かさを得ることは、物質面の程にわかりやすいものではないと思う。その際には、我々は精神的に豊かになった、と実感できないかもしれない。しかし、わかりやすい余裕を求め、結局は余裕を失うというループを脱するには、まずは短絡的に余裕になりたいという欲望に支配されてはならないと思う。


 現状として、国の文化政策も一種の物質的な豊かさを指標にしてしまっているのではないか。何もかもが効率で評価される社会には、本来的に芸術は生じないはずである。そのような社会に、芸術は要らないはずである。その他方では、現在でも日本には旧きを大切にする価値観が受け継がれている。その精神性を何とか現代の基準で称揚しようとして、挫折しているのが、「合理的な」文化政策の非活性に行き着いているのではないか。伝統を守ろうという意図があっても、即物的評価に落とし込んだらその意味がわからず、守る以上の目的を見出せていないのではないかと思う。


 私は、この時代において「文化財保護」をひたすら続けていくのは、困難だと考える。むしろ社会が寛容になり、日常生活の方が上のような余裕を自然に受け容れる、余裕への一種の無関心さをそなえるのが必要なのではないかと考える。確かに人間は暮らしの余裕には憧れるが、それを積極的に求めると、結局は得られないことになる。芸術に関しても、政策を打ち立てて現状に対する「対策」を行うのは一翼にすぎず、より自然にそれを育める社会的状況がなければならない。私はそのように、自分の生きる中で自然と芸術と付き合うことのある世界に暮らすことを夢見ている。

 
 

​小林真生は音楽をする人

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