top of page

小林真生のサイト内ブログ
こちらは書き物の一覧になります。何か気に留まることがあったときに記録したり、何かをお知らせしたりする、その他も多々なる雑記になります。


我ここに芸術を宣言す
大変だ! リスが牛に追われている。 時はまさに世紀末。 世紀末というのは百年の末に追われる人間の都合で神様悪魔魑魅魍魎動員せる大所業なり。 割といつでも世紀末はやって来て鎮座しているが、いま鎮座しているから世紀末なり。 熊が人間を追掛けて人間に追掛け回される世の中なんだから、いずれ牛がリスに追い回されたって仕様がない。 ただ目の前のリスはつぶされそうで気の毒だ。 失われて何十年神様帰れないのも一苦労だ。 神様どこに帰るんだかわからない人間は大変だ。 大変だ! 常なる世紀末で皆人間魑魅魍魎社会なり最初から大変だ。 リスを守って馬鹿野郎、リスをつぶして馬鹿野郎 アホの牡牛に、見て仔牛 にわとりたまごに悪魔の魔のま、大変だ! 余裕を失っている。 この夜中、余裕を失って引繰り返っている。 精神世界は静かで、外には何も聞こえない。 ふとして、キィィヒィィとカン高い声が聞こえてきた。 人間一人ずつさらわれていくんだと思った。 リスを守って馬鹿野郎だの泣いて笑ってぷんすこりん。 鶏守って一卵得ずとも一卵守る思想家たれ。 ここに人間として藝術を宣言す。 以上
7月20日


生活の精神的余裕に寄せて
昨年度に某授業で執筆した小論文を、抜粋で紹介する。 以下当該の文。 ・・・ [……]私は、人々が日々を暮らしていく中で自然と芸術体験が関わってきて、そこで何か芸術が生まれ、芸術に触れるような社会になってほしいと考えている。一般に人はただ自然の状態で生きていくことはできないが、このとき必ず生じてくるのが「文化」である。つまり人間の事柄であっても、心臓が動く、空腹になるといったような生物的・生理的なことは「文化」ではなく、他方で人が集まり、そこで共有された作法や営みが「文化」となる。人は自分の自然の、いわば非文化の部分を根底にしながら、文化によって他人と関わることで生存してきたという、二重の不可逆を背負っているのである。 そして、人間社会の中で共有されてきた文化は、必然的にその共有枠組みの「歴史」を持つ。他文化を見つめる際には、現在進行形の文化と、その文化の蓄積である歴史の両方に注目し、分析することができる。文化同士を比較する際には、歴史に対して現状のみに注目することもある。一方で、自分自身が生きている文化を掘り下げて知ろうとするには、必然的に歴
7月14日


ぷんすかの理由を求める時勢に寄せて
今学期末に拵えた小論文に「あと書き」として付した雑記を転載したい。 以下当該の文。 ・・・ 現代においても「そう感情的になんないで」という言い回しはよく用いるものであるし、また感情を剥き出しにしたらどこか劣ったものになった気がする。実際、怒りでも嘆きでも、([論文内の]上では Affekt や Leidenschaft のような)強い感情を伝えるのは、「理性」なように見える。いくらでもぷんすかしている人が映像化されている現代では、顔や所作のぷんすか具合を競って表明しても仕方なく、ここまでぷんすか動画が多ければぷんすかが「真実」なほどむしろ陳腐でもある。ぷんすかをより深く共感せしめるのが、ぷんすかの「理由」だということになっても仕方ない。映画のストーリー仕立てにする、「あるある」を交えた短文投稿に整える、時事問題を取り上げる、などの導線を求めることになる。 19-20世紀を経過した今となっては芸術が「感情表現」だというのは常識ですらあるが、とりわけ SNS で人間の感情欲望剥き出しな今においてすら、自分で感情剥き出しになると劣った気がするのに
7月12日
bottom of page