心の喩え
- 小林真生

- 2025年12月24日
- 読了時間: 3分
心に響く、心が温まるなど、字面だけいくらでも受け取って、自分でいくらでも心に残る何とかについて語ってきた。

ちなみに「精神」という言葉も使っていて気になったことがあり、それが感覚としてどのようなものなのかわからなかった。
これを解釈するのがある種の「魂」と「霊」の関係であるといえる。
つまり、「たましい」を個の核とするならば、霊や気や精神は何らかの作用なのであろう。
生命を動かす霊は固まった形がない。
実体というより、「流動的なエネルギー的作用」といったところ。
それを束ねるか何かして、連続性を維持するのが魂といったところ。
魂があり、その働き、つまり霊が自分内外に流れ、世界とつながる。
精神にあたるのが、西洋語では spirit や Geist などである。
聖霊 heiliger Geist の概念もあるが、やはり個としての Soul や Seele という核の外の普遍や原理であることがわかる。
精神性といったら、それは働きである。
頭なのか、心臓なのか、それとも体から少し離れたどこかなのか、どこかに突き詰めた感覚がなくても仕方がない。
臍の少し下に下丹田があるらしいが、これは解剖学的現実ではないから言われて実感した。
生命の力や安定にかかわるらしいが、確かに位置からして重心なので妥当である。
根のしっかりしている、何とかの据わった、、、などといったらここの意識であろう。
加えて、胸部に中丹田、頭部に上丹田があるようで、これはおよそ心臓と脳との対応である。
一般に、感情に近い精神性はこの胸部で働くといわれ、要するに心である。
そして思考に近い精神性は、同様に頭部のその頭である。
しかし、感情を心のものだとして、私には心臓によって楽しさや悲しさを感じるといった感覚がほとんどないし、生理的に心拍数が上がって、それが感情と関わっていたとて、拍の上がったり下がったりするだけの心臓がなぜ感情の根源になるのかわからない。
むしろ、頭であり、顔であろう。
顔の表情筋が感情そのものの気もする。
それも心理学的には妥当であるらしい。
感情が身体反応として表情になるのが一般通念であろうが、表情のフィードバックが「感情 feeling」になるという仮説も支持されるようである。
胸が高鳴るなどの内臓の段を飛ばした顔の変化を、私は感情としていることになるが、これが各人の定義の問題になることは尤もである。
しかし、私が今までこの意味で使って通ってきたものである。
しかし、私にはその感情に即時性のある気がしない。
何かを感じた瞬間の表情筋の動きを捉えて感情と呼んでおくのであれば、それは鋭い瞬間の把握になるのであろうが、私にとってはもっと冷静なものである気がする。
しかしそれが観察的だといわれると、それを司る頭脳とは少し違う気がする。
感じるところによると、私にとって「心」の比喩は、目頭にあたると思う。
いわゆる「目頭が熱くなる」、涙を流すときだけでなく、心が何とかすると言明することがあると、実は意識されるのは目頭である。
それでいうと、比喩を越えて瞬間的に心(心臓)を揺さぶる場合を、一つだけ思い付く。
つまり、人に見られた場合であり、そのときの視線に刺された場合である。
この件だけにはただ結果の心拍が上がるだけでない精神の流れを感じ得る。



