来歴
- 小林真生
- 5月6日
- 読了時間: 15分
大学学部卒業までの来歴を、憶えている動きや、その都度の考え事に沿って記しました。

● 就学まで
2003 年 1 月、生まれる。幼稚園に通う。入園のいきさつなど記憶になく、気がつけば園児である。同様に音楽教室にも通った。およそ小学校入学の数年前くらいに、富士北麓勝山の実家が建つ。
● 小学生
入学の前後であったかと思うが、ピアノを習い始める。実家の大部屋におもちゃの町を広げて遊んでいた。およそ現代都市である。2 年生の春に、親友 2 人と、後に「YAT」となる組織を立ち上げる。最初は、仮想の怪獣めがけて棒を振り回すような遊びであった。諸々の習い事もありつつ、以上のことは卒業の頃まで続く。5 年生の冬からであったと思うが、かえ歌の制作をはじめ、おどりとともに日々披露する。だいたいその後ほどに、家にあったノート PC を事実上自分のものにする。諸々の事務作業や、文書や広報コンテンツの作成など、「YAT」に関する多くのことを行った。この組織は、とりあえず非営利の、ボランティア団体くらいに捉えておいて差し支えないものである。卒業前に Android タブレットをもらい、Minecraft Pocket Edition(以下マイクラ PE)を始める。YouTube を見始める。
● 2015 年度、中学 1 年生
卓球部に入ったが、多少の運動くらいのもので、実質は「帰宅部」である。
マイクラ PE では、「舞京」という名で現代都市の建設を進める。私の初めての SNS である Google + を始め、そこでマイクラのコミュニティーに入った。時期的にクリスマス・プレゼントであったと思うが、Celeron 搭載の、それでも動作は今までのものよりいくらかましのデスクトップ PC をもらい、Minecraft(Java 版、以下マイクラ)を始める。後に「舞京都西舞京」ということになる蔵太国の首都の建設を始める。
すでに閉鎖されているものであるが、個人と「YAT」のそれぞれの Web サイトを開設する。その個人 Web の方でブログを始める。現在、本文は全く失われているのだが、手元にある画像データを見るに、毎日か何かの密な定期更新であったらしい。
夏休み前くらいにピアノのレッスンをやめる。
家の大部屋に壁ができ、一人部屋になる。
● 2016 年度、中学 2 年生
マイクラでは、引き続き西舞京の建設が進む。当時の最新版に加え、豊富な MOD を使うためにバージョン 1.7.10 もプレイするようになる。大自然の中に重要軍事施設が点在する「舞京都東舞京」ということになり、やがてある村を、空軍の司令部と飛行場のある「(旧)空軍基地村」として発展させることになる。
4 月 4 日、YouTube での動画投稿を始める。西舞京の紹介動画から始まり、旅行動画や、「合唱曲を MIDI で作る」シリーズなどを投稿する。現在、いずれも一般公開していない。
年度内にブログの更新の休止があったようだが、夏頃に再開し、しかし9 月頃の更新を最後に途絶えたようである。その Web サイトについては、後に数年間手をつけなかった結果、ログイン履歴がなく云々、という通知が来て消去された。
学習塾に通い始める。学校の授業にもいくらか熱が入ったようである。冬休みの前後、塾の上位クラスに入ったところで、隣の中学校の生徒で吹奏楽部にいた Y ちゃんと出会う。それから中学校卒業まで、何かと吹奏楽に関する体験談を聞かされることになる。
およそこの年度中、学校では教師を含むあらゆる人に対する無視をする。望むなら引きこもりになりたかったのだが、それに都合の良い家庭ではなかったため、一応は学校に行っておいて人と関わらないでおく、「バーチャル引きこもり」を目指したのである。その後、何らかのタイミングで解消されるといったことはなく、現在に至っても、身のこなしの多くは当時に拠っているものである。この中で「YAT」の現実的活動はマイクラ内の「YATTSK」に形式的に吸収され、私の外的活動は、YouTube か、Google + か、ブログかといった具合に限られるようになった。それ以上に、従前の楽天的な性分から突き放されたことは、苦悩に見えるとともに、解放でもあった。
「東方プロジェクト」を知ったのも、この頃であろう。
● 2017 年度、中学 3 年生
マイクラでの活動の大部分は、すでに東舞京にある。空軍基地村が要塞としてかなり発展したところで、列車 MOD を導入し、鉄道を走らせる。ちょうど壊滅的な破壊があったところで、大きな駅舎が中心部にでき、町の様子ががらりと変わった。それからしばらくして、地図上に、大陸の端につながり大洋に臨む、最終的にささやかな市街が 2 つと飛行場と港のある国軍基地を建てたのであるが、それであと半分くらい余りあるような、ちょうど良い大きさの島を見出した。これが「真印蔵太島」である。
YouTube の更新は続いている。年が更けるにつれて、Y ちゃんの吹奏楽雑談が楽しさを募らせる。うちの学校にそうした部活はなかったが、一応はピアノを習っていることもあって共感できるし、そう促してくる。自分はというと、シカトによって絶望を乗り越え、その一方、マイクラで基地の間を戦闘機で飛び回るのが、何よりもの楽しみであった。まさにこのときこそ、創作意欲が活かされるべき。東方アレンジ界隈や、愛すべき YouTuber の影響もあり、DTM とはどのようなものか、調べ始めていた。以上の結晶となったのが MWY 1(YouTube 上の音楽作品で一作目)の楽曲である(1 月 18 日)。これ以降、ゲーム動画から徐々に比重を奪い、YouTube においていくつか実験的な吹奏楽曲が投稿されることになる。
年度の初頭には修学旅行があった。そして秋には学園祭があり、それなりにはたらいた。この中で、シカト状態はいくらか和らいだ。しかし、もはやかつてのように、抑圧してはいられない陰翳がある。ほぼ学校に転じる形で、夏休みの旅行を機に、家庭内の会話を一切やめた。執筆現在まで、その状態は続いている。これから、もはや一人で、創作に打ち込むことになるのだ。
● 2018 年度、高校 1 年生
隣町・富士吉田の高校に入学する。晴れて同校の同級生となった Y ちゃんに、ピロティで会えばしきりに吹奏楽部に誘われたことが想い出されるが、結局は入らずに、一応あるからと「音楽部」に入部届を出したのであるが、一度も出向かなかった。なぜだかはわからない。振り返ると、時間のあり余った高校生活であった。
年度の最初、当時のミドル・レンジ GPU である GTX 1060 を入れた PC を導入する。中学時代のグラボ非搭載の Celeron PC と比べれば、まさに大躍進である。マイクラ 1.7.10 も劇的に軽くなり、真印蔵太島の開拓も、飛行や航海も、増して精力的になった。この年度で、島の大半の計画が形になった。大規模な飛行場や軍港、軍司令部が整えられ、基地に近く古風な家屋の立ち並ぶ「基地前市街」や隣接する団地と農地、島の南部に高層ビルが立ち並ぶ新市街、自宅、道路ができ、2 つの市街に駅を建て、大陸の旧空軍基地村などを通る長大な鉄道が開通した。
冬休みの頃まで、作曲については散発的に謎の吹奏楽曲があるくらいで、初期マーチの様式が確立してきた以外には、あまり成果はない。その後の進展を見るに、理論面での勉強が捗っていたのだと思う。冬休みが空けて、ゆるく形成されていた「ワンヌ文化振興協会」のようなものに、《ワンヌのためのパレード》MWY 15 を発表すると、それは同級生のうちで有名になった。
高校時代の同級生に言及しようとするならば、総じて優しさのうちに胸が張り裂けそうになる。1 年次には、中学以来の親友 S くんとその取り巻き、英語の授業などで馬の合いすぎた S ちゃんなどととりわけよく笑い合った。しかし、進んで、自分から話しかけようと思わない。内面世界が誇大になり、それを不器用に表現しながらも、方法として秘すことを秘した。もっとも先述のように、中学時代の「シカト」期から立ち直れたものではない。この頃、おそらくは Google + が閉鎖されるというニュースがあって、主な住処となる SNS を Twitter に移した。そこで最初期につぶやいた文面からは、当時の焦点のなさがうかがえるだろう。思うに想像がいくらでも巧みであるのに、その個人性ばかりに習うべきことを習わない、いうなら習えない、将来の開花を見据えた気分で若き日を耐えたのは、現在の成果につけるとしても、全く不幸である。
● 2019 年度、高校 2 年生
文理選択で文系になる。とりわけクラスの雰囲気が良好である。初日のホームルームにて、私が作曲をしていることや、《ワンヌ》や《1 年 6 組のうた》MWY 16 の存在を知ると、担任は「自分のテーマソングを是非」と言う。私はすぐに作り(MWY 19)、加えてマーチ(MWY 21)や修学旅行テーマソング(MWY 34)など、この年度には行事がある度に新曲ができた。
修学旅行では沖縄に行った。どこか拍子の抜けた実感のする日々であったが、虚ろなことも忘れるような充実と衝動の中で、一般人のいう「青春」がたたき込まれた気がする。この憧れは未来永劫追ってくるのだと思う。
夏休み中であったと思うが、現在も運用していて、他でもないこの記事の入っている、この Web サイトを開設する。「情報」という、PC 作業などをする授業の中で、狂気に満ちたプレゼンテーションを作って紹介したことを憶えている。このときは K くんというのと仲が良く、彼の方は誰も分け隔てない振る舞いをしたのだが、私にも同様であったのが特筆されるべきである。
12 月頃、作曲に関して転機となることが起こる。それも明瞭ではないが、すなわち、改めて、モーツァルトを見初めたのである。モーツァルトに関しては、先述の小学生のときから借りパクしていたノート PC にいくつか父のコレクションが入っており、とくに何故か第 1 楽章のデータが破損しているクラリネット五重奏曲の録音など、ずっと前から繰り返し聴いたものである。年明け前から、自作の中にギャラント・スタイルのパッセージが露骨に増えている。1 月、または 2 月以降、例の感染症の影響で休校が続くのであるが、その中で自作は吹奏楽曲などに対してピアノの独奏曲が増え始める。学問としての「音楽学」を意識的に志すようになる。おそらくはこの時期に楽典や音楽史の概略を読み返し、自分なりの問題意識が芽生えたのであろう。
● 2020 年度、高校 3 年生
4 月から学校は閉鎖状態であり、徐々に対面での授業が増えていった。しかし嬉しさを隠さずにいられなかったのは、明らかに同世代のカルチャーに陰鬱な雰囲気が立ち込めたことである。私にとっては驚くほど平凡な日々であった。すなわち、いずれにせよ休暇中に会う友達などいないわけで、ただ一日かけて部屋の中に籠もり、課題をこなしたり、DTM をしたりするのは、ただ今までの長期休暇の風景であったのだ。すでに自分のことについては、寂しさを実感することはなかったが、それにあえぐ同級生の声に共感できることは、嬉しかった。
この頃になると、マインクラフトはほとんど膠着状態になっている。創作意欲は大体が音楽にあった。
音楽学を研究するための、進路選択が始まる。私はまず相当ハイレベルな音楽大学を志望し、周囲を困らせたと思う。しかし当初の目論見は同校のこだわりではなく、単純に教育機関についての知識がない中で、駄目なところから削っていって、残った最上位を第一に志願するというものであった。しかし相談が重なると、学費の問題で私立音大に通えそうもなく、音大ならば首都圏の国公立、といって状況は厳しいものになる。この前提で伝手を渡り歩くことになったのであるが、その中で現在も師事しているピアノの I 先生をはじめ、安全路線で最初から一般大学を考えていれば到底なかった知己を得られたのは、かなりの幸運である。受験については、結局は勧められたという理由で明治学院大学文学部のみを受け、そこに進学する。
休校期間、音大志望の告白、それを前提とした和声法の添削、ピアノのレッスンの開始というふうに続き、作曲のスタイルについてもかなりの変化があった。もっとも西洋和声法の学びの中で従来の無頓着を克服しようとしたものであり、静的で、場合によっては DTM の最初期より熱の感じられないものもある。それでも、当然ではあるが、教えられた通りにやっていればよく響くものである。
妨げる忙しさがなかったからなのではあるが、学園祭はできる限りはたらき、当日がかなり暇であった以外は満足感があった。それが終わると、「感染対策」などをしながら、一応は同じ教室に集まっている中で、私は会話の楽しみをなくした。受験の厄介さを分かちあった間柄であるからそう感じるのかもしれないが、とても心優しい人達であった。上に名前を挙げなかったうちで、どうしようもなく恋し、憧れた人もいる。しかし卒業式の日には、誰に引き留められて話すこともなく、円満に校門を出ることができたのである。
新しく始まった I 先生のピアノのレッスンは、実技に関して全くの基礎から始まった。すなわち初歩の練習曲以前にハノンの弾き方があり、単音を美しく響かせなければならず、それらより前にイスの座り方がある。矯正するのは、全くの初歩であるよりも互いに骨の折れる作業であると思う。しかし、表現に悩んだ高校時代がなければ、自分の共感性がどこに向かうのかと思うと、おそろしくなる。
● 2021 年度、大学 1 年生
戸塚に引越す。初めての一人暮らしである。生活上の規則を厳格に守るように心がける。高校時代には、夕方の帰宅後すぐに寝て、深夜に起床、そこで諸々の活動とともに一日が始まる、というサイクルであった。しかし、引越し後は朝方の起床時刻を固定し、そこから一日において作業を詰め込むことになる。しだいに調理や食事に関する規則も定まっていった。
同区内の横浜キャンパスに通うが、授業はオンラインが多かった。英語とドイツ語の授業は、一時の嬉しい出会いもあるが、基本的に自分のコミュニケーション能力に絶望するものである。1 年次は音楽にとらわれず、幅広い芸術分野の授業に顔を出した。そしてあらゆる場面で、自分の知識量に焦りを感じる。今までときめいたのは自らの創作と、その副次的な理論であったのであり、学生までもがその鑑賞に関して興味と知識を持ち合わせていることが、衝撃であった。
音楽に関しては、創作の経験とともに、入学前の数か月で西洋音楽の基礎的・教養的な知識をたたき込んだ。実作と持ち合わせ、いかにも「クラシック通」として振る舞おうという目論見のためである。音楽史や楽典、概論の授業の前には入念な予習を欠かさなかった。同様の理由である。
そもそも自分の創作から生じた音楽学的な問題意識の根本は、作曲や演奏、聴取など、作品を取り巻く行為における思想的事柄と、その差異である。自分の責任において創作をしていれば、何らかの迎合なしに意志が伝えられることはなく、しかし結局は厳密な理解はどのような努力の上にもされ得ないことは、よく実感されることである。しかし、音楽を言葉で書き表す諸氏は、その言葉の力のあまりに、間違いを律することを越え、自由を傷つけていないだろうか。自分たちの言葉の秩序に性急に取り入れることが、いかに一時の音楽理解を誤解しているだろうか。この行為に批判的になった上で、本当の言語的理解が原理的に不可能であっても、それを不断に追求し続ける必要はあると思う。一応は外見のために知識を詰め込んでいく中で、その信念や、経験への欲求がより強固なものとなった。
自作曲では室内楽が多く、しかし絶対量は少ない。諸々の刺激を受けながら、新たな緊張感とイディオムを心得、形にしている。
普段の生活習慣が変わり、実家の過ごし方も高校以前と変わった。やはりそこで言うことはないのだが、団らんの時間が生まれた。
● 2022 年度、大学 2 年生
授業は原則として対面になる。発表形式の演習が始まる。まずは何らかの枠の中で、それを紹介してみるのであった。昨年度で一通りの学科の概説科目を追ったところであり、今年度は大学共通科目も精力的に履修する。研究上の問題意識の関連として、また教養として、昨年から引き続きなのではあるが、取得可能単位数の上限まで履修した。
作曲において、およそ春学期の終わりに、以降の根幹となる語法の確立があったと思う。それからは、作曲については気付きのあったことを淡々と形にし続けるものとなり、DTM において、最終的な音源としての質の追求をとくに行うこととなる。同時期に Ivory II の導入があり、スタジオ・グランドピアノ Bösendorfer 225 が定着した。奏法など演奏プログラムの洗練化や、ミキシング、マスタリングの模索に熱が入ったと思う。
年度末の春期集中演習では、ホワイト・ノイズを素材として普段の創作との乖離を試み、《減算方式の音響による湖の印象 ~対岸の主題によるインヴェンション》を作った。
日々の鑑賞で、重要な出会いがあった。すなわち C.Ph.E. バッハに抗いがたい魅力を感じたことなのだが、それまで彼のイメージといえば、まずもって有名な巨匠の息子であり、また古典派の先駆けや重要な奏法論の著者として、音楽史上の重要人物といったものであった。しかし生前も今も「独創的」といわれるその楽曲は、逆にそのような言葉で括ることのできるものだと思えず、それが「表現」の夜明けであり、橋渡し役であるという、歴史的意義に固執するのは勿体ないと思う。この内実に迫ろうとする方向性が、確固たる興味となった。
● 2023 年度、大学 3 年生
田園調布に引越す。白金キャンパスに通うことになる。受けられるようになった特別講義や興味のある共通科目を選んでいると、例によって上限まで単位を取得することになった。オルガンの実習を受ける。
マンハイム楽派、ハンブルクの演奏会、そして C.Ph.E. バッハの楽曲といったように、18 世紀のドイツ音楽について研究する。17-18 世紀の音楽美学についても発表を行った。
YouTube の定期更新を始める。すなわち、現在も続いている 2 日に一本のペースでの音楽作品の投稿である。新しくサブチャンネル「小話真生」を開設し、雑談動画の毎日更新を始める。話し下手な私について、実践を積み重ねて話力を向上させようとするものである。「意外性」として音楽の表現上の基礎語法の言語化ができるようになり、雑談とともに生産し続ける必要性に駆られる。DTM としての成果物にこだわりを強めたことで、メインチャンネルで過去楽曲の再録が徐々に比重を増す。
● 2024 年度、大学 4 年生
春学期の間、教習所に通い、自動車免許を取得する。
「18 世紀の北ドイツの音楽における Empfindsamkeit について」という題で卒業論文を執筆する。この言葉は現代の様式研究の中で、特定の範囲を指す新たな意味が加えられたものでもあるが、1770 年代の流行語でもあり、私は 18 世紀当時の人々の捉え方に注目し、この語を足掛かりとして思想に迫ろうと試みた。
受けた授業は少数であった。秋学期のドイツ文学の授業で「映画嫌い」を告白し、実感として学部生活の集大成をみる。
ストリート・スナップをはじめとして、写真を精力的に撮るようになる。
この Web サイトの改装を重ね、ブログも書き始める、もしくは再開する。
大学院進学が決まる。