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2 日に一本のペースで YouTube を更新し続ける意義

  • 執筆者の写真: 小林真生
    小林真生
  • 5月3日
  • 読了時間: 3分

私の YouTube メインチャンネルでは、ルールとして一定のペースを定め、動画投稿を続けています。それを妨げる YouTube 側のサービスの問題がない限り、もしくはかなり対策をしているものの、こちらに持続的な身体的困難がない限り、このペースを変えることはありません。鉄則です。


公園にて
公園にて

 昼間は、なかなか自分のためのまとまった文章を書く時間がとれないのですが、就寝時に勢いで書きつけるやり方をとってみると、だいたい書きたいときに書きたいものが書けるということに気付きました。今回や前回(「作曲と感情表現について考えていること」)は、このやり方で書いてみました。


 現在のメインチャンネルは、自分の音楽作品を投稿する場となっています。今後もずっとそうであるとは保証できませんが、「 2 日に一本」のペースはこのコンテンツを想定したルールなのです。他にやりたいことが生じてきたとしたら、そのペースの中に様々な種類のコンテンツが含まれることになるでしょう。音楽コンテンツを想定したルールではありますが、チャンネル・ベースのルールとして確立したものなのです。


 将来のことははともかく、現状、この中で求められることは、動画投稿の更新に対応するため、音楽作品を作り続けることになります。ただし実際には常時いくつかのストックを用意しており、例えば 2 日間で作った曲を即日投稿する、というものではありません。少しばかりの行き詰まりや、前述の身体的困難に対応して、それらがあっても鉄則であるペースを第一に崩さないように用意しているものです。しかし、長期的に平均して 2 日間に 1 つの作品ができなければ、当然ながら更新を続けることはできません。そう考えるならば、諸々の事情をもつ私が例外的措置、例えば一回分の投稿を休むといった措置を取りながらも、即日投稿を続けるというやり方よりも、むしろ多くをこなすことになるのです。


 これを続ける意義は、私が時間を過ごした証拠を作品として残し続けることにあります。私の感じたところが、次々と投げつけられていく。作曲は、自らの関心を記号に落とし込む行為です。恋や憧れといった熱い意識が創作の原動力となります。広義の演奏にあたるのは、私の場合は音源の制作ということになります。DTM において、コンピュータ上で MIDI データなどをプログラムすることになるのですが、成果物として音が生じる点で(ジャンルによっては DTM の広範を作曲ともみなすようですが)、譜面の記号を扱う作曲とは本質的に異質なものです。生演奏の場合の指揮者の存在と重ね合わせると、身体性の意識がなければ DTM でも深めることはできないでしょう。こうして保存できる可能性が出てくるのが、作曲の記号的方法では残しようのない身体的感覚・感情です。


 以上のようなことが、2 日に一作のペースで公開されていく。その総体で、おそらく生きている、誰かには共感されるような私の姿が浮かび上がってくるでしょう。


 以下、昨日 Twitter(現 X)の「小声」にポストしたものです。


 悩める、現代における社会生活、またその反転しての自然の心理的消費にも疲れ、根源から原初的な自然に憧れる、その憧れがあるのであれば若い誰でも、謙虚に自分を若いと認める者なら誰でも良く、衒学が全く嫌だが音楽の理知性にくらいはいくらか興味があり、音楽に対して感動の理想像を求めている、普段は実際的な生活に耐え、社会制度の中に自己としての存在を見出すが、ただ苦役を反転しただけの娯楽の形に満足しようがない人、うちにおいで。

 
 

​小林真生は音楽をする人

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