コメント欄とイメージ
- 小林真生
- 4月9日
- 読了時間: 2分
YouTube などの動画コメント欄の様相は、今後数年間でまったく変わるように思われる。そもそも書き言葉というものは、何百もの大衆からどっと寄せられて、いちいち真意を想像していられるようなものではないでしょう。

本人たちにまったく悪気はなく、良かれと思っているのでしょうが、こんなことがある。人気 YouTuber のコメント欄には好き、一番好きだとか、応援しているだとか、動画待ってた、いつも見ています、といったようなコメントばかり。そしてしまいには、「動画の」コメント欄であるのに、その内容についてのコメントなど見つからないことすらあり、あさましい。ファンの正直な告白であるというのは、もはや問題外です。言葉はそれを単体で保証できない。見ず知らずの人の「好き」に、人気者はいちいち喜んでいるのでしょうか。本人はそう言うかもしれない。しかし少し分析するとずれが見える。つまり、彼らの興味の対象は、いったい何人が「好き」と書いたか、ということ。大衆に書かせると、そこに収斂するのが「言葉」なのです。好き、ここが好き、どれくらい好き、などといった短文は、今世代の AI でも際限なく作れます。管理可能なデータです。
では、いかに叫べば良いのか。
ひとまずは自分のコメントをイメージの空間にしてみる。感想をイメージで表すように工夫してみる。とりあえず簡単なのがすでに用意されている「絵文字」でしょう。また日本語には顔文字など文字絵の豊かな文化があります。このところ新作が目を引くような状況ではありませんが、発想しだいで復権もあるかもしれない。もちろん先の「好き」なんていう文も絵文字で装飾されるものですが、多分に慣習的です。イメージにこだわるなら、いかにその無慮な文がそれとして人を突き刺してきたか(リリック・ビデオのようなものが上手く扱っている情動です)、見えてくるでしょう。
結局、テキストデータを介するならば、言葉に落ち着くと思います。そうではありますが、それをよりイメージとして、数文字程度のものの空間をつくり、味わう態度が、広く浸透していくのかもしれません。