作曲と感情表現について考えていること
- 小林真生
- 5月2日
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作曲者は、楽曲に自らの感情を保存することはできない。

そもそも作曲とは何か。つまりは、音楽における記号的な、言語のような事柄を指定する行為のことです。こうして成立するのが楽曲であり、またそれを記した楽譜です。音楽には音そのものが必要であるので、楽譜は「作品」か、と問われることもありますが、音楽作品を重層的に捉えるならば、楽曲や楽譜もそれとして作品であると理解できましょう。
作品という閉じられたシステムの周りでは、あらゆる人々が各々の立場でそのシステムと関わっています。すなわち、およそ作る人がいて、それを受け取る人がいる。音楽作品を全体として捉えたとき、「作る人」には演奏者が含まれます。彼らは自らの身体によって演奏し、その演奏は奏者の感情や感覚の直接の影響を受けることになります。
では、作曲の場合はどうか。このとき、作曲者のもつ感情と楽譜における記号との関わりは、間接的です。そこに自らの身体的感覚としての感情を、残しておくことはできないのです。身体で行う演奏とは異なり、意図を記号に落とし込む作曲において、作者と作品は明確に他者であると捉えなければなりません。作曲者が楽曲に抱く感情は、そのはたらきかけにおいて聴衆のものと変わりがありません。あくまで人間の側で感じているものなのです。
心のはたらきでありながら、感情とは違った指向をもつものがあります。それが恋です。一般に恋は感情として扱われていますが、それが本質ではないでしょう。恋するときに感じているのは空虚です。憧れているのだから当然です。それよりも外へと突き進む関心が、重要なのです。
作曲者が楽曲に仮託するのは、人間やその感情をも含む、様々な存在への恋や憧れの視線であると考えます。そして作品がより高次になったとき、その効果が対象としての形となるのです。これについては、その効果をプログラムするという職人的な側からの解釈もできるし、それが妥当でもあります。いずれにせよ、作曲者の感情をおもんばかっていては出会えない音楽の姿がありましょう。
西洋音楽史には感情(情念)のキーワードとして「描写」と「表現」の2者が(もちろんそれだけではなく)あります。そして 18-19 世紀に主流となった「表現」としての音楽理論は、現代の大衆(ポピュラー)音楽にも当然のように継承され、いまだに全世界を席巻しています。異文化の音楽観の考慮が足りないのはもちろんですが、西洋音楽文化の側から見てもあまりに一面的でしょう。