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心象列車

  • 執筆者の写真: 小林真生
    小林真生
  • 6 日前
  • 読了時間: 2分

愛なくして現代の都会を生きている。



得体のしれない隣人の、幸せから願わない私であるが、そしてこの都会に関心があるわけではなく、望むなら離れたいところでもあるが、そこに集まる美しいものに興味を持ち、面白がりながら生きている。

未だに文化を会得しない。

美しいものにはただそれ以上に意味をあてつけていない。

良いだろうが、他人はそれを寂しいというのかもしれない。


かつては、美というものはどこか切実に思われたのであろう。

私のような温室育ちには、古い家屋の断熱性のないこと、冬になるとよく冷えることは技術的欠陥であり、克服すべき不便のように感じられた。

そして歴史上、一般的室温の向上が文明の発展を象徴しているという説をどこか疑いつつ、多く共感した。

しかし、そう克服しようとして感じるのに美はないことがわかった。

物質的に不便なとき、美があるから実際の寒さが防げたり、忘れられたりするわけではない。

一方で、より良い生活への憧れに美があったわけでもない。

その生活苦に因果がない上に、何かを面白がる習慣が自然とあったのであろう。


あらゆる要請によって、東京には様々なものが集まっている。

このぐちゃぐちゃが嫌いである。

煩いと思うし、その欲望の挫ける瞬間を痛快に想像する。

しかし集まった様々なものは、とりわけ美で生きている。

それで全体的調和などどうでも良くなってくるが、そうなると他人の存在に怒りの生じるのが私である。

かつては辺境のどこにでもあった瑞々しく美しいものを、バキュームのように吸い取って細長くしたのが沢山ある。

その容貌は否定しても終いである。

しかし、そう吸い取ったものには切実さがない。

結果として、都会人は田舎の何とかに憧れ、その何とかのない田舎人は都会人たろうとする。

これが尽きることのない隔絶の苦しさである。

実は、誰も自分を守る要請は踏まえていない。

「アイデンティティ」というのは、自分から遊離し始めて、簡単に見出すものなのであろう。


消費社会におりながら、それを融かした中に、自分の美の世界の中に振舞っていて、私は一応、これで生きている。

美を意味から守るために、私は自分の世界の全体を意味とする。

全体に軸でなく、刺激に動くものである。

用をなさないのは当然であるし、私がどうなるかも知らない。

 
 

​小林真生は音楽をする人

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