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愛についての雑感

執筆者の写真: 小林真生
小林真生
8月4日
読了時間: 2分

昼食後に書き付けた雑言。



 信仰は単に信仰としてあり、愛は単に愛情としてある。私にこれがわからない。愛は信仰とともにあるとしか思われない。愛と信仰とが別個のものとしてあるのを証明するのが、目下暫定の課題であると考える。人生的目標なのかもしれない、とも思われる。


 宗教は他人に何とかを施せ、と教える。人間は他者に何とかを施す。愛ゆえに何とかをやったということになる。この間を知りたい。知識としたい。また私は自身における事情がわからない。分析できない。他人の事情はなおわからない。とにかく愛が理解できない。信仰によって愛の形を実現するのなら、愛は一種の教育的産物なのか、としてもそうとは思えない。予感はする。その予感とは無教育のなつかしみである。しかしこのなつかしみは教育がここまで引張ったものである。


 一人前になれ、と言われて教育された。現代の一般人として立派になるんだからそこに愛が含まれなければ違う。立派に大学院生にまでなった。院に放り投げられるまでの、自分を放り投げるまでの成績があるんだから立派である。立派なのは愛が理解らなくなって、懐かしさに愛を見出そうとしている。表面的行動を信仰の産物としている。


 「可愛い」が、可愛いのの信仰でないことはわかる。しかしそれは憧れであり、恋である。「恋」の向かう愛の形である。憧れなくなったら愛の形はどこかへ飛んでいく。そして飛んでいくからまた憧れる。消滅すると失望する。世界がかわいいに溢れていることを知ると希望になる。世界中のかわいいものはかわいくないものに脅かされる。これはすごくつまらない。可愛さを守るべく芸術を打ち立てる。聳え立つ芸術は芸術だけでまた高くなる。かわいいものは絶望する。


 絶望するかわいい子はなおかわいい。他人は余計に愛でたくなる。


 ――「……死ね。」


 放り投げられる言葉は言葉としての意味を放って空気を遮った。私は喉が外側からつかえる気がした。


 しかし私はこの子のことは知らない。兎に角まだかわいいと思うからわからなくなる。でも知らないから退散の結である。


以上

 
 

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​小林真生は音楽をする人

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