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余裕条々(余裕についての随筆)

執筆者の写真: 小林真生
小林真生
8月18日
読了時間: 4分

更新日:6 日前

 私の中学の3年間は短かった。高校の3年間は圧倒的に長かった。



 世間の人はよく一年を「短かった」とか「あっという間だった」と評す。今の私のそのような感覚はあまりない。一日の暮れるのがあっという間だったとか、精々一週間くらいの伸縮評価ならしているが、それが365日もある単位になると、どこかで幅を会得した節がある。全体像を把握している。振り返れば365日は365日として淡々と流れている。


 日々に乗じる生活は淡々としない。忙しいときもあれば閑なときもある。忙しい日々は内部に大変が詰まっているのでその存在は問題にならない。閑な日々は問題を抱えている。少なくとも私には、余裕が感じられないのである。


 今年の3月はほぼ寝転がって過ごした。お菓子かコンサートのためばかり街へ出た。そうなるとやはり考え事も込み入った。この状況のことを余裕のある生活というんだろうという考えはいつも意識にあった。しかしどうしても、余裕であることを実感できなかった。常に何かに追われている気がした。俗に「将来に対する漠然とした不安」とか言うので、それだろうと思った。こうなると兎に角「大目標」を定めて早く邁進しなければならないという思考にもなった。


 それから学期が始まって、7月には某氏が「春学期はあっという間だった」と言うから、私は自分の中で一年365の珠の均等をなぞって面白がっていた。すると、それぞれに間のないことに気付いた。私が余裕を感じられないのは、忙しく短い一年を過ごしているのでなくても、長くならないものを長くしようとして失敗するからなのである。


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 率直に問われる。人類に根本的な余裕を感じることはできるのか。そもそも余裕に根本はあるのか。他人と比べなければ、余裕は実感できないのか。根本がなければ、事情は人それぞれ異なるということになる。根本があれば、、、人それぞれに事情のあることは同じである。しかしそこに優劣が付く。余裕は競争なのか、問われなければならない。


 自分に余裕がある、という発言が根本的共感を志向するために生じるのか、権力の誇示のために生じるのか、どこの布団でいくら寝転がっても余裕の感じられない一学生にはわからない。


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 人類のあらゆる自負心は脱獄に喩えられる。換言すれば責任感の理想は無責任である。最初は容易な、大から小の社会、社会に対する俺くらいの比喩だったものが、やもすると身体を牢室のように見ている。こうなると無責任はつまらない。人類は監獄に夢を見る。


 監獄の夢は責任感である。脱獄なる夢である。脱獄は人を魅了し、文化になる。しかし実際に解放されてしまうと困る。自分の理想は監獄の理想にとらわれてこそ「意味」と呼ばれる。


 監獄の理想は自負心を持たない理想である。自負心を持たない理想は責任感の夢である。現前する責任感の夢は金である。


 現前する金は理想を育む。監獄生活としての緊張度を高める。自負心のない者はこの緊張度を指して余裕と称する。囚人には看守が付く。囚人の余裕には看守の監視が付く。この監視は富豪をして余裕と称す懲役を遂行せしめる。


 進歩史観に疑義あって21世紀も溶解していく一応なる今世紀、生活の純度を見ては、しかれども進化を頭ごなしに否定してはいけないと考えられる。人々は露骨に監獄生活の徹底を欲す。監獄生活の相は成功の証である。金のある者はいざ実行する。優雅の矜持もなければ純粋にはいよいよ近付く。都会にはこぞって堅牢なる刑務所が建つ。殖えても巨大になっても足りない。刑務所とは相貌のことである。とにかく理想を結集した住居である。


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 俗に言うクラシック音楽たる西洋芸術音楽は、原則として拍から逃れない。普通では一定に保つべきである。フェルマータは音を伸ばす記号ではなく、音価を殖やす記号である。いくら殖やすのか、適切に計算しなければならない。フェルマータが余裕の表現であることは、まあない。


 豊かな音を出すためには、緊張しないことである。緊張しないためには、余裕を知ることである。そしてその余裕とは、時間と関係しない、音である。


 豊かな音は、拍の中に余裕を現す。拍を余裕にしてはいけない。表現とはその中にある覚悟である。全ての芸術様態には形式がある。キャンバスを広くする財力が画家の能ではない。あらゆる芸術で映画を上等とする法はない。映画が360度VRになったらそれが芸術か問うてみると良い。寝て起きて夢と現とで芸術性の比較でもしてみると良い。


以上

 
 

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​小林真生は音楽をする人

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