視覚と視線、そして聴覚
- 小林真生
- 2月22日
- 読了時間: 2分
人の姿に見惚れることがある。しかしそれも好き勝手にしてはいられない。つまり、こちらの視線には気付かれるので、見つめ返してくる。人が何を見ているか、視線から想像できるのです。

においと感触は、近さにともなうものです。コンピューターで再現しようとしたってそうで、物質が欠かせません。他方で視覚と聴覚は、それぞれ波を受け取る感覚です。感じているということが、すなわち近くにいることをあらわすものではありません。
波は物があると、はね返ります。目が受け取るのは光ですが、視覚は光にはね返った物の姿もみとめます。視覚はそこから、物までの距離やその大きさを測ることができるようにできていて、においの世界と連続するように情報を処理するものです。そして視覚の世界でよいものを見つけたとき、憧れる。その触れがたい「美しさ」をみとめます。一方で、光の入り口となる瞳は、人に見られるものでもあります。姿を見ているとき、それによって他人事ではなくなる恐れもあるのです。
音はどうか。空気に波ができて音となり、広がり反射を繰り返して作り出されるのが、その場の音響です。その波を受け取るのが聴覚なのですが、しかし余程の必要性もなければ、あの壁にはね返ったこれくらいの周波数帯、みたいな知覚は作り出しません。もちろん音響も重要ですが、しかし人の声とか楽音とか、その音源にかなり興味がある。視覚も光源をみとめますが、その世界は影があってこそ認識できるものです。聴覚は違って、波の情報によってそれを発した物を追いかけようとする。そしてよい音があれば、これにも憧れ、「美しさ」をみとめる。しかし当然ながら、どんなに人の声に惚れ込んでも、視線ならぬものが人に「聞かれる」ことはありません。どんな音に意識を向けるかというのは、もっぱら個人的な問題なのです。
先に、波を受け取ることが「すなわち近くにいることをあらわすものではありません」と言いました。それには、視覚と聴覚それぞれに補足が必要です。まず視覚は、光を頼りに姿をとらえるものであり、瞳は人を見て、人から見られるものである。見返されたくないのであれば覗き見を成功させるしかありません。聴覚の場合は、確かに音源は必ずしも近い存在ではありませんが、それでも音の減衰を考えるとある程度は近くにいたいものです。普遍的な光の波に頼るのではなく、空気中で何かが音を立てるに頼り、それとして感じるものなのです。そこに、視線とは違う気がかりがあるのかもしれません。